父の思い出

私のお父さんはもう亡くなっている。90過ぎで亡くなったのだから長生きしたほうだろう。東北の片田舎で生まれ戦後焼け野原になった東京へ家族を連れて出てきた。一旗揚げようと思ったのだろう。その頃はそういう人が多かった。

仕事は染物の仕事をしていた、結構仕事もあった。染物の仕事が好きであったというよりは自分の親もその仕事をしていたのでそれを継いだに過ぎなかった。「俺は郵便局に勤めようと思ったんだ」といっていたから郵便局に入りたかったのかもしれない。しかし試験をパスしなかったという。なぜなら身長が少し低すぎたからだといっていた。郵便局員と身長は関係あるのでしょうか。

しかしこだわるほうではなかったのだろう、すぐに頭を切り替えた。活力はあるほうだった。その頃の一家庭の家族構成は両親と子供二人というのが平均的な家族構成だが、子供を四人も生んで育てた。

若いころは戦争中だから兵隊にとられて外地へ行かされたと思うが、兵隊にはとられなかった。内地の軍需工場で働いていたらしい。その働いていた工場が空襲で爆撃を受け水を送るポンプが壊れたことがあった。そのポンプはずいぶん高いところにあったので危険なので誰も修理に登りたがらなかった。それを怖がることなく登り壊れたポンプを直したことなどを楽しげに語っていた。