金田一京助著「石川啄木」読了

こんにちは、虫眼鏡です。

今日は4月4日、東京は雨です。気温は10度。湿度は97%。

石川啄木1886年明治19年) - 1912年(明治45年)は、岩手県に大きな歌碑がある。高さは4.5m。

やはらかに柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに

これは1910年に出版された「一握の砂」の中に収められている。

啄木といえば「一握の砂」「悲しき玩具」が有名であるが、評価としては「一握の砂」は感傷的な歌が多いそうです。「悲しき玩具」は生活に即した歌が多いそうです。評価としては「悲しき玩具」のほうが上のようですが、歌人としての才能がある人だから、「一握の砂」の中にも人を引き付ける歌がある。

「悲しき玩具」のころの石川啄木は、「社会主義思想」に傾倒していたのだ。当時の有名な幸徳秋水事件には非常な関心を寄せた。しかし結核にかかり、27歳で生涯を閉じてします。

私は金田一京助の「石川啄木」を読んで、金田一京助という人にも興味を持ちました。言語学者で、特にアイヌ語の第一人者である。学者であるが、家は学者の家ではないようですね。しかし、「石川啄木」は金田一京助が「論理的な頭脳の持ち主」であることを物語っています。私はそこに興味を持ちました。金田一家は、インターネットで調べてみると、

金田一家は、京助の曽祖父伊兵衛勝澄が米穀商として一代で財を成した。大飢饉の際、蔵を開いて町の人を飢えから救い、南部藩士分に取り立てられた名家であった。父の久米之助(旧姓・梅里)は農家の出身だったが、読み書きそろばんのほか絵もうまく、才気煥発であったところを買われてヤスの婿養子になったが、商売下手で任された事業にことごとく失敗していた。しかし金田一家の当主で伯父の金田一勝定(ヤスの長兄)の援助により、京助は生活苦を。知らず育った。弟6人は全員東京帝国大学に進学している。」